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サッカーと言うスポーツ [世界のサッカー事情]

【付録_1:イタリアを映し出す鏡】
1998年6月11日・・・
この日のイタリアは、6月初旬だというのに真夏のような猛暑だった。人々はバールに集まり、広場や劇場に設置された大画面の前に陣取って試合に見入っていた。国会も地方議会も議事は中断、政治家達は1時間半だけ口論と中傷を止めて同じ旗の下に集い、イタリアの勝利を祈っていた。

(ワールドカップ・フランス大会におけるアズーリの緒戦チリ戦での出来事・・・週刊サッカーダイジェスト(World Soccer Digest)ロベルト・バッジョ 引退特集号より)

【日本の政治家や国民達のサッカー普及率】
自分が聞いた話です。
1990年イタリア・ワールドカップで彗星のごとく現れ、救世主となった「サルバトーレ・スキラッチ」が1994年、日本のJリーグ「ジュビロ磐田に入団」した。その年に各国首脳会議が行なわれた。その席で、イタリアの首相から日本の首相に「イタリア自国のスキラッチが日本の磐田に移籍したが、宜しく・・・」と質問をされた時、日本の首相は何の事か解らず答えられなかった。とか?そしてワールドカップの話になると、日本の首相は話に入れない。らしく認知度の低さ、勉強不足、サッカーの事を知らな過ぎる。

1998年フランス・ワールドカップの日本戦に日本の政治家はフランス迄行きましたか?
自分の記憶が正しければ、誰一人応援に行って無かったと思いますが。どうでしょうか?
2002年ワールドカップの時に総理大臣は観に行きましたか?テレビを観ていても報道が無かったように思うのですが、間違いですか?あの1ヵ月の間に日本人がどれだけ感心を持ったのでしょうか? 自分は電車通勤していましたが、この1カ月の間、車内でワールドカップの話を一度も聞きませんでした。悲しい限りです。

そこで2006年ドイツ・ワールドカップ迄の1年間、日本人のサッカーに感心が集まるか? そして政治家の行動、ドイツ(現地)迄足を運ぶだろうか?疑問である。 また野球が主流でも有る日本人に解るだろうか、サッカーが何故地球で一番のスポーツである事を・・・。

そして、以下のような事が現実になって来た事を、
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毎日新聞:オピニオン ワイド 12版 6ページ

【記者の目:2005年7月13日(水曜日)】
シンガポールで9日まで開かれた国際オリンピック委員会(IOC)総会では、IOCが目指す五輪の方向性が顕著に出た。特に12年にロンドン五輪で野球、ソフトボールの除外を決めた実施協議見直しの議論に、それは色濃く表れた。一方で、IOCがスポーツの価値まで支配する動きには、抵抗を感じざるを得なかった。
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だが、その基準はビジネスライクだ。注目を集め収益に繋がり易い、つまり「金になる競技」ほど価値が高いと言う判断だ。今回の議論の基礎資料となった各競技の評価報告書も、チケット販売やテレビ放映時間、放映権料収入など、マーケティングに関連する項目が特に詳細だった。
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今回、除外理由として、野球は「トップ選手(米大リーガー)が出場しない」、ソフトボールは「世界的な普及度が足りない」と指摘された。
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野球やソフトボールは試合が長く、終了時間も読めない。雨が降れば中止。テレビ中継に、これほど不向きな競技は無いと言われる。しかも、普及地域外の人にとってはルールが複雑だ。
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今後、野球が米大リーグ機構が計画する国別対抗戦「ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)」を軸に独自の方向性を探る動きがあるが、ソフトボールは厳しい。
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この事は必然だと自分は思う、何故もっと早くから気が付かなかったのだろう!? 自分はもう10年以上前からこのような事が来る、と思っていたし知人にも話をしていた。 サッカーと言うスポーツの偉大さを知って頂きたい。それにはサッカーを知らない人に如何に解って貰えるか。それがこれからの問題になると思っている。自分はこれ迄にサッカーに関する色々な情報を入手して来ている。地球上で一番知られているスポーツ(サッカー)は留まる事が無い。サッカーは芸術だ!!
今は増々サッカーが好きになって来ています。



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CALCIO_解 体 新 書_№17 [世界のサッカー事情]

【今回の分析対象】FC BARCELONA 唯一無二の“両立”
究極とも表現できるボールポゼッションをベースとしながら、 隙あらば効果的なカウンターアタックを躊躇なく繰り出せる。 そうした両立を高度に実現している唯一無二のチーム。 最強バルサの攻撃、更にはその背景にある“哲学”を、 現役イタリア人監督のロベルト・ロッシ氏が改めて検証してくれた。

[ グアルディオラ時代よりも カウンターへの意識は——— ]
 【監督が交代したとはいえ、大きくは変わらない。特筆に値するようなバルセロナの新機軸はナイというのが、分析を終えての一つの結論だ。
 新指揮官のティト・ビラノバが専念しているのは、2012年夏の監督就任時に既に完成していたスタイルの熟成という印象が強い。サッカーのコンセプトから具体的な戦術まで、ジョゼップ・グアルディオラ前監督の路線を受け継いでいる。
 最大の違いは、システムを4-3-3に固定しているところだ。グアルディオラが昨シーズン、チームへの刺激も狙いとしながら導入した3-4-3は完全に棚上げしており、今回分析した1月13日のマラガ戦(リーガ・エスパニョーラ19節)にも4-3-3で臨んでいる。
 先発メンバーをご覧になって頂きたい(図①)。11人中、ダニエウ・アウベスとハビエル・マスチェラーノを除いた9人がカンテラ(下部組織)の出身だ。とりわけ中盤から前の6人は、シャビ、セルヒオ・ブスケッツ、セスク・ファブレガス、ペドロ・ロドリゲス、アンドレス・イニエスタ、そしてリオネル・メッシと、全て生え抜き。改めて、驚かされた。
 後述する通り、昨今のバルサは安定したボールポゼッションを土台としながらも、攻撃のあらゆるバリエーションを使い分ける完成度の高さに達している。レパートリーに含めているのは、ボールロスト後のアグレッシブなハイプレスに引き続くショートカウンターだけではない。状況次第では自陣ゴール寄りでボールを奪い返した後、グラウンダーの縦パスをスペースに繋ぐミドル/ロングカウンターを繰り出せる。長駆(ちょうく)のカウンターを見せる機会が限られているのは、殆どの試合で主導権を握り、ほぼ敵陣だけでゲームを進める展開となるからだ。それこそ敵のコーナーキックのこぼれ球で始まる逆襲でもない限り、いつものポゼッションサッカーを遂行する。
 マラガ戦が興味深い内容になったのは、この対戦相手が正面からの戦いを挑んで来たからだ。引いて守りを固めてくる格下の相手を遅攻で崩す多くの試合と比べると、バルサが本来持っている攻撃のバリエーションを披露する機会が多かった。
 比較対象としたグアルディオラ監督時代の試合は、セスクが未だアーセナルに在籍していた頃のチャンピオンズ・リーグ。ホームのアーセナルが善戦し、バルサを2-1で下した10-11シーズンの決勝トーナメント1回戦だ(図②がバルサの先発メンバー)。
 バルサが見せたのはコレクティブなサッカーで、敗れたとはいえ内容的には非常に質の高い試合だった。アーセナルがラインを押し上げ攻勢に出てくれば、カウンターアタックを試み、早めのタイミングで裏のスペースにボールを送り込む。アーセナルが引いてくれば、ポゼッションでじっくり押し込んでから、コンビネーションによる崩しを狙う。敵陣でボールを奪われたら、アグレッシブなハイプレスで直ぐさま奪い返そうとする。状況に応じて的確な戦い方を選びながら、それを組織的に遂行してみせたのだ。
 その点ではマラガ戦の内容にも、共通点が多かった。いつものバルサとはいささか異なるパターンで決めたのが、後半立ち上がりの50分にセスクが奪ったチームの2点目だ。
 敵陣の浅いところで、バルサのD・アウベスがボールを奪い返す。攻撃の起点となったのはパスを受けたメッシで、センターサークル付近でボールを持った(画像①)。メッシはブスケッツとのパス交換でマークを外し、完全にフリーになって前を向く。この時マラガの最終ラインはペナルティーエリアから15㍍前後の高さに押し上げており、背後には30㍍ほどのスペースが出来ていた(画像②)。
 次の選択でマラガの最終ラインがリトリートを選んでいたら、メッシはドリブルで仕掛けるか、近くにいたイニエスタ、もしくはD・アウベスとのコンビネーションで崩そうとしていただろう。ところが、マラガの最終ラインが試みたのは、高さを保ったうえでのオフサイドトラップだった。ボールが“オープンな”状態だったにもかかわらずダ。
 イニエスタとポジションを入れ替え、左ウイングの位置に大きく開いていたセスクは敵最終ラインのこの動きを見て、裏のスペースに向かってダイアゴナルに走り込む(画像③)。メッシはセスクの走り込むタイミングに合わせ、“浮き球で”およそ25㍍のラストパスを送り込んだ(画像④)。
 いつものバルサであれば、グラウンダーのショートパスによるコンビネーションや1対1の突破でボールを“浮かさずに”敵の守備ブロックを崩し切る。それに照らせば縦に速い展開だったのは確かで、少々珍しい形のゴールだった。
 マラガ戦のバルサはセスクのこのゴールシーンを別にしても、早めのタイミングで裏のスペースを狙う攻撃を何度か見せている。

[ 基本のプレーコンセプトは 常に同じで一つなのだ ]
検証の比較材料としたのはセスクがまだ敵だった時代のアーセナル戦。バルサの“哲学”は当時から変わらない。
確認しておこう。「ボールポゼッション」そのものが、バルサのサッカーの基本コンセプトなのではない。ポゼッションはあくまで手段であり、目的は「敵最終ラインの裏で味方をフリーにしてボールを持たせる」トコロにある。敵のGKとの1対1に持ち込み、シュートを撃てる決定機を作り出そうとしているのだ。
 勿論ボールを支配して主導権を握ることで、自分達のペースに持ち込んで試合を進めようとしている側面はある。それでも、目的はやはり別にある。敵にボールを与えず、即ち攻撃の機会を与えない。そうした状態を保ちながら、ボールを動かし、相手を振り回す。結果、守備網にスペースやギャップを作り出し、最終ラインの裏のスペースにボールと人を送り込む。ポゼッションの目的はそこにある。付け加えればこうした攻撃は、守りを固めてくる相手を攻略し、決定機を作り出せるほぼ唯一のアプローチと言っていい。
 話が違ってくるのは、マラガ戦のように敵が最終ラインを押し上げ、背後にスペースを残している場合だ。バルサはできるだけ素早く、そのスペースを突こうとする。アーセナル戦を含めて縦に速い展開が相対的に増えたのは、そうした機会を敵が与えてくれたからであり、それ以外の理由はない。基本となるプレーコンセプトは常に同じで、ひとつなのだ。
 セスクのゴールにしてもその個性に帰するというよりは、バルサのプレーコンセプトや戦術から生まれたものと捉えるべきである。確かにセスクというプレーヤーは、例えばイニエスタと比べれば、オフ・ザ・ボールで裏のスペースに走り込もうとする意識がより強い。マラガ戦の得点シーンを振り返っても、メッシからのラストパスを引き出したのは、イニエスタとポジションを入れ替えたセスクが最終ラインの裏に走り込んだからだった。あそこにイニエスタがいたら、裏に走り込むのではなく足下にパスを引き出す動きを見せていたかも知れない。とはいえ、例えばダビド・ビジャ、アレクシス・サンチェス、ペドロといったアタッカーであれば、セスクと同じようにオフ・ザ・ボールの走り込みでスルーパスを引き出し、敵の最終ラインの裏側を突く機会を逃さなかっただろう。そうした動きのパターンが、チーム全体に浸透しているからだ。
 昨今のバルサが偉大なのは、究極とも言えるポゼッションサッカーを体現しているだけでなく、状況ごとに異なる、それでいて最も効果的な形でゴールを奪えるからなのだ。チーム全体が共有している同じビジョンで状況を捉え、阿吽の呼吸としか言い様のない意思疎通、組織的な連携でそれを見事に打開してみせる。このチームの偉大さはポゼッションだけでなく、カウンターアタックでも変わらない。
 あれだけ高いボール支配率を保ち、常に主導権を握って戦いながら、しかも切れ味鋭いカウンターアタックを繰り出せる。ボールロストの直後からアグレッシブなはいプレスに転じ、敵陣の高い位置で即座にボールを奪い返しては、そのまま一気に攻め切れる。
 そうした一連の展開を可能たらしめているのが、前線のアタッカーたちによる守備参加。メッシ、ペドロ、ビジャ、サンチェスのいずれもがディフェンスをサボらず、インテンシティーの高いプレッシングの担い手となる。ボールポゼッション中のプレーリズムは比較的スローでも、ボールを失った直後の守備ではインテンシティーが一気に高まる。
 こうしたネガティブ・トランジション(攻→守の切り替え)、即ちハイプレスの浸透により、カウンターアタックを喫するリスクを最小化しているのが今のバルサだ。更には短時間でのボール奪取からの、つまり素早いポジティブ・トランジション(守→攻の切り替え)からのショートカウンタに繋げようとする。それが守備戦術の基本となっている。
 いわば二段構えの構造だ。アグレッシブなハイプレスからのショートカウンタを第一の狙いとし、ボール支配が確立したあとはポゼッションでじっくりとした攻めを見せる。難易度の高いこうした両立が可能なのは全選手が同じサッカー哲学を共有してうえで、自分達のスタイルに絶対の確信を持ち、組織的なメカニズムを機能させるために献身的にプレーしているから。チームに独善的な、例えばロナウジーニョ、サミュエル・エトー、ズラタン・イブラヒモビッチあたりがいたら、機能し得ないメカニズムなのである。
 この“同質性”こそ現在のバルサの神髄であり、それが他のクラブには真似できない絶対的な違いを作り出している。ここまで徹底したやり方で特定のスタイルを追求し、実現しているクラブは何所にも存在しない。そうした取り組みをしているクラブすらないのだから、バルサは唯一無二だと表現できる。




《ワールドサッカーダイジェスト:2013.2.21号_No.381_記事》
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(秘)世界蹴球 紳 士 録_FILE:32 [世界のサッカー事情]

会長、GMなど サッカー界を動かす  エグゼクティブの 知られざる素顔 (代理人:ミーノ・ライオラ)
数々のビッグディールを成立させ、イブラヒモビッチを筆頭とする顧客に大幅な年俸アップをもたらす最強のエージェント、ミーノ・ライオラ。あまり語られて来なかったキャリアと人物像、そしてその交渉術に、スポットライトを当てる。

[ 顧客第一のポリシーは変わっていない ]
顧客のためならいかなる労も惜しまず、表から裏からあらゆる手練手管を弄して状況を動かし、移籍を実現させる。必要ならば憎まれ役になることも厭わない。その徹底したやり口から、業界内には苦々しく思う敵も少なくないが、その手腕には誰もが一目も二目も置く
 ミーノ・ライオラ。本名はカルミネだが、カルチョの世界ではもっぱら愛称のミーノで通っているズラタン・イブラヒモビッチロビーニョ(ともにミラン)、マリオ・バロテッリ(マンチェスター・C)を始め、派手な大型移籍をいくつも実現させてきただけでなく、各国1部リーグにオランダやブラジル、チェコなどの国籍を持つ有力選手を数多く顧客に抱え、その動向が常に注目される当代きっての敏腕代理人だ。
 1967年生まれの44歳。ナポリに近いカンパニア州ノチェーラの出身だが、1歳の時に両親に連れられてオランダに移住し、アムステルダム近郊のハーレムで育つ。サッカー界に足を踏み入れたのは、両親が経営するピッツェリアで働くうちに、ソコに集まるサッカー選手やクラブ関係者と知り合ったのが切っ掛けだ。地元のHFCハーレムで育成部門のスタッフとなり、90年代初頭にFIFAエージェントの資格を取って代理人に転身した
 代理人となった彼がまず取り付けたのが、プロサッカー選手協会と掛け合い、オランダの全選手のイタリアへの移籍を仲介する独占権だった。当時のセリエAは「世界で最も美しいリーグ」と称された全盛時代。給料の水準はオランダとは桁違いで、どの選手もイタリア行きを夢見ていた。まず92年にブライアン・ロイをアヤックスからフォッジャに移籍させると、翌年には当時の国内最大のスター、デニス・ベルカンプの移籍(アヤックスからインテルへ)を成功させる。特大の実績を作り、瞬く間にオランダの選手達の信頼を勝ち取った。それまでイタリアへの移籍ルートを仕切っていたコア・コスター(ヨハン・クライフのマネジャー)とアポロニウス・コニンブルグを、見事に出し抜いたのだ。
 ベルカンプを巡る移籍交渉の席で、ライオラがインテルに提示した条件は2つ。ベルカンプにチームで一番の給料を払うこと、そして、彼の親友でアヤックスのチームメイトだったヴィム・ヨンクもセットで獲得することだった。それさえ受け入れてくれれば、アヤックスと相場より安い移籍金で話をつけると持ち掛けたのだ。実際にライオラは、より高額のオファーをヨンク獲得に用意していたユベントスを押し退け、インテルとの話を纏めあげている。顧客である選手の移籍を何としてでも実現させ、高い年俸を勝ち取るというライオラのポリシーは、この時から今まで全く変わっていない
 そしてライオラは、当時フォッジャを率いていたズデネク・ゼーマンを足掛かりにして、チェコにネットワークを広げる。最初に動かした選手は、同国のトッププレーヤー、パベル・ネドベドだった。ラツィオでも、次の移籍先となったユベントスでも、ネドベドは常にその時点におけるクラブ最高の年俸で契約を交わしている
 次なるターゲットは、タレントの宝庫ブラジル。現地に事務所を置いて若い才能を発掘しヨーロッパに売り込むという手法で、マクスウェル(現パリSG)をアヤックスに、フェリペ(現フィオレンティーナ)をウディネーゼに10代で移籍させ、実績を積み上げた。
 とはいえ、最も太いパイプを持つのはやはりオランダ。取り分けアヤックスである。ロイ、ベルカンプに始まり、イブラヒモビッチ、マクスウェルからウルビー・エマヌエルソン(現ミラン)に至るまで、アヤックス出身の選手は勿論、09-10シーズンに指揮を執ったマルティン・ヨル監督(現フルアム)も彼の顧客だ。】

[ 「あのマフィアみたいにしつこいデブ」 ]
2年前の夏にはイブラロビーニョのミラン移籍を同時に実現。これでガッリアーニ副会長ライオラの信頼関係はより分厚いものに。
契約選手の中で一番の大物は、イブラヒモビッチである。彼がスウェーデンのマルメFFからアヤックスに移籍して来てから間もなく、二人は固い絆で結ばれた
 初めて待ち合わせた場所は、アムステルダムのホテルオークラ。颯爽とポルシェで乗り付けたイブラの前に現われたのは、ナイキのTシャツにジーンズ姿の「ただのチビデブ」だった。ところが話を始めたライオラは、
何様のつもりか知らないが、シーズンでタッタ6ゴールしか決められない選手をビッグクラブに売り込めるわけないだろ。世界一になりたいのか? それならポルシェやらロレックスやらは全部売り払って、本気でサッカーに打ち込め。そんなモノは世界一の選手になればいくらでも手に入るんだ。お前には才能がある。でも今のお前は並以下の、ダメな選手でしかない
 と、一喝する。そして、ポルシェを売ってフィアットに乗り換え、クラブのトレーニングウェアで過ごすようになったイブラに付きまとい、尻を叩き続けたのだ。その2年後にユベントスに移籍し、ソコからインテル、バルセロナ、ミランと渡り歩いて世界のトップ3に入るストライカーとなったイブラは、2011年に出版した自伝の中で、「俺を最強にしたのはあのマフィアみたいにしつこいデブ」と、愛情を込めて語っている
 そのイブラをメガクラブからメガクラブへと移籍させ、年俸を雪だるま式に増やした手腕は語り草。アヤックスからユベントスに移籍させた際には、リヨンやモナコがより高額の移籍金(2000万ユーロ=約22億円)をオファーしたにもかかわらず、当時ユベントスの強化責任者だったルチアーノ・モッジと結託してアヤックスを揺さぶり、1200万ユーロ(約13億円)での取引きを成立させた。その差額の多くがイブラの年俸に回ったことは言うまでもない。ユベントスからインテルへの移籍は、一度は合意に達していたミランを最終的には袖にして実現。バルセロナへの移籍は、インテルにチャンピオンズ・リーグ優勝を可能にする戦力を揃える資金(+サミュエル・エトー)を、イブラには1200万ユーロという破格の年俸をもたらした。そこからタッタ1年でミランに移籍させた折には、逆に2400万ユーロ(約26億円)という大バーゲンの移籍を、しかも3年分割で支払うという条件をバルセロナに呑ませる強(したた)かさを見せている
 ミランのアドリアーノ・ガッリアーニ副会長はこのディール、そして同時並行で実現したロビーニョの移籍交渉(マンチェスター・Cとの)を通じ、ライオラの手腕に惚れ込み、今ではお気に入りのコンサルタントであるエルネスト・ブロンゼッティを上回るほどの信頼を寄せている。カルチョの世界でも指折りの“古狸”として知られるガッリアーニから、これだけの評価と信頼を得るのは、一旦選手を移籍させると決めたらなり振り構わず、あらゆる手を使う剛腕を持っているからこそ。値段を決め、移籍先を探し出し、双方のクラブに何度も足を運んで、揺さぶり、駆け引きをし、なだめすかし、時には脅しを懸けながら説得し、契約の詳細を詰めるまで、全てを自らの手でお膳立てする。誰に嫌われようが、どんな評判が立とうが、全く意に介さない
 2年前にバロテッリをインテルからマンチェスター・Cに移籍させた時もそうだった。恐らく彼も、イブラと同じように後一つか二つのメガクラブを渡り歩き、その度に年俸は、吊り上がっていくのだろう。】




《ワールドサッカーダイジェスト:2012.6.7号_No.364_記事》
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いつだって楽天南米_No.164 #364 [世界のサッカー事情]

“悲劇のワールドカップ”を知る代表メンバーの10年後

【先日、フォトグラファーの夫が過去に撮影した、膨大な量の写真を整理していた時のことです。「Mundial 2002」(02年ワールドカップ)と書かれたファイルが目に留まって、その後1時間ほどファイリングされていた全ての写真に、思わず見入ってしまいました。
 日本で初めて開催された記念すべきワールドカップ。ビエルサ監督率いるアルゼンチンは当時、ジダンを擁するフランスとともに優勝候補の筆頭に挙げられていました。『ワールドサッカーダイジェスト』から原稿の依頼をいくつか受けていた私は、そんなアルゼンチン代表を密着取材する機会に恵まれたのです
 アレからちょうど10年が経ったわけですが、生まれて初めて常磐線に乗って、アルゼンチンのキャンプ地だったJヴィレッジまでワクワクしながら出掛けた日々が、つい昨日のことのように思い出されます。
 その時の写真を見ていて、ふとある事実に気付きました。それは、02年ワールドカップを戦ったアルゼンチン代表の3人が、現在のリーガ・エスパニョーラで監督としてチャレンジしているということ。言うまでもなく、ビエルサ(A・ビルバオ)、シメオネ(A・マドリー)、ポチェティーノ(エスパニョール)(※1)の3人です
 当時から名将として知られていたビエルサに関しては、驚きはありません。ただ、シメオネポチェティーノが、今や世界で最も注目されるリーグのクラブで指揮を執っているなんて、想像もつきませんでした。しかも、あの「悲劇のワールドカップ」からちょうど10年後の今シーズン、ヨーロッパリーグのファイナルでビエルサシメオネの“元アルゼンチン代表師弟対決”が実現したのですから、もう夢のようです!!(編集部・注:3-0で勝利したA・マドリーがヨーロッパリーグ王者に輝いた)
 付け加えるなら、A・マドリーでシメオネのアシスタントを務めるブルゴスも、20年ワールドカップのメンバーの一人。一時は腎臓癌を患い苦しい闘病生活を強いられたブルゴスだけに、後に指導者としてシメオネの隣で大舞台に立つことになろうとは、きっと本人も予想していなかったんじゃないかしら。
 今紹介した4人以外にも、現在指導者として活躍している02年のメンバーはけっこう居るの。このコラムをいつも読んで下さっている方なら、彼の名前が真っ先に思い浮かぶのではないでしょうか。そう、アルメイダです。
 監督となった彼が率いるクラブは、アルゼンチンの2部リーグで名門復活を期すリーベル。熾烈な争いが繰り広げられている2部も、いよいよ終盤戦に差し掛かりましたが、果たしてリーベルは最短の1年で昇格を勝ち取れるのか。2か月後のこのコラムで、「リーベル昇格決定!!」のお知らせが出来るといいのですが
 そのアルメイダ監督のアシスタントとして、リーベルの復権に尽力しているのがDFとして日韓大会に出場したチャモ。また、チリのオーヒギンスというクラブでは、控えGKだったボナーノが、コーチングスタッフの一員となってベリッソ監督(元アルゼンチン代表DF及びビエルサ監督の元アシスタント)をサポートしています。
 もう一人、忘れてならないのがMFで登録されたガジャルドです。なんと、ウルグアイの強剛ナシオナルで監督を務めているの。ちなみに、日韓大会当時25歳で、3バックの一角として2試合に出場したプラセンテもナシオナルの一員です。ただ、彼はまだ現役選手。若手に負けじと頑張っています。
 日韓大会の23人では、クレスポアイマールサネッティサムエルベロンの5人がプラセンテと同様に現役を続行中。エストゥディアンテスのベロンは今シーズン限りでの引退が濃厚ですが、インテルのサネッティはまだユニホームを脱ぐ気はないようですし、「リーベルに復帰してくれ!!」とアルメイダから熱烈なラブコールを受けているベンフィカのアイマールも、引退はもっと先の話になりそうです。
 10年を一区切りとするならば、気になるのは更に10年先の22年ワールドカップ。シメオネの息子ジョバンニ君(16歳)が、アルゼンチンのエースストライカーとして活躍する———。そんな未来を期待しながら、もう一度02年大会の写真をしみじみと眺める私なのでした。】 《この項・了》

(※1):ポチェティーノ(エスパニョール)は、本誌『《ワールドサッカーダイジェスト:2012.6.7号_No.364_記事》』記載の 「監督プロファイリング_第11回」 注目を集める指揮官の“特徴・真価”が浮き彫りに   ※古豪の窮地を救ったカリスマ指揮官※ エスパニョール監督:マウリシオ・ポチェティーノ にて紹介。




《ワールドサッカーダイジェスト:2012.6.7号_No.364_記事》
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(秘)世界蹴球 紳 士 録_FILE:31 [世界のサッカー事情]

会長、GMなど サッカー界を動かす  エグゼクティブの 知られざる素顔 (マルセイユSD:ジョゼ・アニゴ)
良くも悪くもマルセイユを象徴する存在、それがSDのジョゼ・アニゴだ。選手時代を含めれば、クラブ在籍年数は26年に及ぶ。長く留まるのは極めて困難と言われるこのクラブで、権力の中枢に居座り続けるこの男はイッタイ何者なのか。

[ 食われるのが嫌ならその前に食っちまえ ]
【2004年のこと。ある選手への独占インタビューで、マルセイユ(以下OM)のトレーニング施設を訪れた。練習が終わり、記者団が監督の囲み取材を始める。そのうちに若い記者が、批判めいた質問をした。すると監督は突然、「お前はどこの記者だ!!」と烈火のごとく怒り出し、驚いた記者が小声で地元紙の名前を出すと、そのスキンヘッドの指揮官は「それでも本当にマルセイユの記者か」と睨みを利かせた。監督が記者を恫喝するような光景は、少なくともフランスでは後にも先にも見たことがない。その監督が、ジョゼ・アニゴであった
 こんなエピソードもある。
 リヨン対マルセイユ戦の試合前。ジェルラン(リヨンのホームスタジアム)のVIPルームへと繋がるエレベーターのドアが開く。リヨンのジャン=ミシェル・オラス会長は、OMのお偉方をエスコートして自分も乗り込み、扉の方へ向き直った。すると何を思ったか、OMのSDとして同行していたアニゴが、背を向けていたオラス会長のダッフルコートのフードに、つまんでいたピーナッツの殻を投げ入れたのだパプ・ディウフ会長(当時)ら他のOM関係者はそれを見て青くなったが、アニゴはひとり、クツクツと必死で笑いを堪えていたという。「悪党」、「無教養」、「マフィア」、「闇の権力者」———。アニゴにはこうしたダーティーなイメージが付きまとう
「毒矢を受けたよ。それも猛毒のな。悪党だの、無能だの、無教養だのと言われて、最初はそういう偏見を無くそうと必死に戦った。でも、すぐに止めたよ。こっちが何を言っても無駄だってことが判ったんでね」
 居直り、ヒール役に徹することにしたアニゴの口からは強烈な言葉が次々と飛び出す。
ここじゃ、舞台の裏から糸を操る術を学ばなきゃ生き延びられない
後ずさったら消される。食われて、それでオシマイだ
 口癖は、「小麦粉の中でグルグル回されて———」。やがて煮えたぎった油に落とされて食われてしまう、という示唆がある。そう、揚げ物だ。食われるのが嫌なら、その前に自分が食っちまえ!! というわけだ。
 この独自の哲学でアニゴは、雇われ会長の首が2年で切られ、監督の首が1年で飛ぶOMにあって、ずっと生き長らえてきた。選手時代も含めた総在籍年数は、なんと26年。これはアニゴが、良くも悪くもマルセイユを象徴する存在であることを示している。】

[ 相棒ディウフも最後は裏切られて・・・ ]
アニゴが監督だった時代にはSDとして彼を支え、会長就任後もともに歩んできたディウフでさえ、最終的に裏切られた。
アニゴが生まれたのは、マルセイユの北部地区。移民が多く暮らす貧しいエリアで、イコール、ギャングの巣窟という差別的な連想が成り立つ。だが実は、ジネディーヌ・ジダンを生み、サミア・ナスリを生んだ、マルセイユ庶民が誇りとする場所でもある
 マルセイユは古くから、移民によって支えられてきた。様々な国から集まった者たちがOMへの信仰で結ばれ、美しく融合されている。スペインから来たアニゴの父にとっても、OMは人生そのもの。実際、このクラブとの繋がりは深い。彼の祖母の従兄ペピート・アルカザールは、30年代にOMのエースとして鳴らした男である。
 アニゴもまさにOMの申し子だ。幼い頃から熱狂的信者としてヴェロドローム(OMのホームスタジアム)に通い、15歳で念願叶ってOMの育成センターに入所する。ポジションはサイドバック。79年、18歳でトップチーム入りし、87年にニームに移籍するまでOMに身を捧げた。
 現役引退後はアマチュアクラブの監督となり、病院の夜間勤務で担架を運ぶ仕事を掛け持ちして生計を立てた。そして97年、アニゴはOMに戻って来る。下部組織の監督、育成センター所長、トップチームのコーチ、更に同監督と着実に階段を登っていき、05年にはSDに就任。本格的に“舞台裏で糸を操り始めた”のはこの頃だ。気付けば、地縁や血縁を基盤としたアニゴ人脈は、クラブ組織の根幹に根付いていた
 糸を強く引き過ぎたこともある。
 ジャン・フェルナンデス政権時代の05-06シーズンに、トマ・デルダという下部組織育ちの若手がデビューした。ところが、これがマルで実力不足。誰もがコノ若いMFの抜擢を訝し(いぶかし)がった。そして間もなく、デルダが暗黒街の大物の息子で、その人物はアニゴに近しいという事実が発覚する。この一件は疑惑事件に発展。しかし、アニゴはもとよりディウフ会長もだんまりを決め込み、フェルナンデス監督が不自然な形で辞表を提出する。こうして真相は闇に葬られ、今も闇の中にある
 約4年に渡り、アニゴと上手く折り合ってきた“相棒”ディウフも、最後は裏切られた。09年夏、死の間際にあったオーナーのロベール・ルイ=ドレフュスが、自分が病床に伏せっているのをいいことに勝手な振る舞いが過ぎると、ディウフを追い出そうを画策する。それを察したアニゴは、「だったら自分も辞める」と発言。ところが、実際にディウフがクラブを追われると、アニゴは何事もなかったかのようにOMに残ったのだ。それ以来、ディウフアニゴとは口を利かない仲となっている
 もっとも、アニゴがクラブに貢献してきたのも、確かだ。特に若いタレントを発掘し、安く購入するリクルーティング手腕には定評がある。マテュー・ヴァルビュエナはその好例で、ナショナル(3部に相当)で燻っていたこの小柄なアタッカーを二足三文で拾い上げた。トルコでプレーしていたフランク・リベリをタダ同然で獲得したのも、アニゴディウフである
 しかし、才能を見抜く自らの目とその功績に対する過大な自信が、09年夏に就任したディディエ・デシャン監督との対立を招くこととなる。即効性のある大型補強を望むデシャンに対し、アニゴは若い才能の発掘を核に据えた政策を主張。自分に反発する指揮官に不満を募らせ、それはやがて憎悪へと発展する。そして今シーズン、アニゴは遂に戦争を仕掛ける。チームが大不振に喘いでいた昨年10月、アニゴは記者会見で、「誰のせいだの何だのと、他人に責任転嫁するのはヤメロ」と発言。名指しこそしなかったが、不振の責任は全て監督にあると暗にデシャンを攻撃したのだ。これに対してデシャンは、宿敵パリ・サンジェルマンとの一戦でチームを勝利に導き、吹き荒れる逆風を振り払うことに成功する。そして、「誰もOMの愛を独占できない」とやり返した。
 一連の騒動を収束させるべく、ヴァンサン・ラブリュヌ会長はアニゴに金銭的ペナルティーを科す。クラブのイメージを損ねたというのが、その理由だった。
 だが今年4月、チームが再び不振に陥ると、アニゴは嬉々としてまたしてもメディアに登場する。
俺への罰は理不尽だ。とはいえ、会長のことは恨んじゃいない。シーズンが終わったら、全てをハッキリさせようじゃないか。その日が来るのが待ち遠しいよ
 戦闘再開の狼煙である。ヴェロドロームのサポーター席には、「デシャンデシャンの選手はとっとと失せろ!!」という横断幕が張られたが、誰もがその背後にアニゴの存在を感じていたデシャンは挑発を無視し、苦境の中でリーグカップのタイトルをもたらす。しかし、両者がこの先も呉越同舟するのは難しいとの見方が一般的だ。
 シーズン終了後には、どちらの血が流れるのだろうか。この夏、「アニゴを切れない」と言われて久しいOMの正念場が、またやって来る。】





《ワールドサッカーダイジェスト:2012.5.17号_No.363_記事》
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いつだって楽天南米_No.163 #362 [世界のサッカー事情]

“世界王者”の肩書きを持つ、トレゼゲがリーベルで爆発!!

【1部昇格に向けて、目下大奮闘中のリーベル。名門復活を期するそのリーベルで、今年1月に頼もしい助っ人として加入したトレゼゲが、まさに大活躍しています。
 トレゼゲと言えば90年代後半にモナコで、2000年からの10年間はユベントスで活躍。フランス代表のメンバーとしては98年ワールドカップ、更に2年後のEURO2000で頂点に立った大スターです。ユベントスを去った後は、スペインやUAEのクラブでプレーしていたトレゼゲが、新天地を求めて突然アルゼンチンに、しかも2部に降格したリーベルに移籍するなんて、きっと誰にも想像できなかったのではないでしょうか。
 トレゼゲはフランス生まれですが、2歳の時に両親の母国であるアルゼンチンに移住。サッカーを学んだのも、プロでビューを果たしたのもアルゼンチンというだけあって、チーム間のライバル意識の強さ、選手に息づく勝利への飽くなき執念など、この国のサッカーを熟知しています。
 最近はリケルメベロンのように、まだ欧州で活躍できる力がありながら、キャリアの晩年は母国でプレーしようとアルゼンチンに戻って来るベテランが増えていますが、トレゼゲからとくに感じ取れたのは、熱い情熱とチャレンジ精神。だって彼が選んだ移籍先は、未だに南米を代表するクラブの一つであるとはいえ、いつまで経っても赤字を抱えたままで、しかもバーラ・ブラバ(暴力的なサポーター集団)とのいざこざが絶えない、兎に角問題が山積みのリーベルです。そんなクラブの再建に一役買いたいというのですから、度胸溢れる“永遠の挑戦者”なのでしょう
 リーベルへの移籍が決まった直後は、周囲から大歓迎される一方、一部のファンから「どうせ高額の年俸が目当てだろう」などと冷めた声が聞こえてきました。1月に行なわれた非公式のトーナメントで対戦したラシン戦では、早速ゴールを決めて期待に応えたものの、その後は筋肉系の怪我が続いたり、チームのリーダー格であるカベナギとの不協和音が囁かれたりと、正直なところ「トレゼゲが来てくれて良かった」と心から思える状況ではありませんでした。
 それでも練習の紅白戦では、チームメイトに「流石(さすが)!!」と唸らせるほどにゴールを量産。アルメイダ監督は、かつてセリエAで得点王に輝いたこともあるストライカーの力が、リーベルにとって大きなプラスになると信じて、2か月ほどスーパーサブ的に起用し続けた後、3月17日に行なわれた2部リーグ25節のデポルティボ・メルロ戦で、遂にスタメンに抜擢します。
 すると、どうでしょう。世界チャンピオンの肩書きを持つFWは、先制ゴールで監督の期待に見事に応えて、3-0の快勝に大きく貢献します。更にスコアレスドローに終わった26節のヒムナシア戦を挟んで、続く27節のフェロカリル・オエステ戦では、PKでゴールを決めただけでなく、タイムアップ直前にはペナルティーエリアの左角から難易度の高いボレーで追加点。そのシュートのあまりの美しさに、チームメイトのGKベガは「信じられない」と言わんばかりに頭を抱え、17歳のオカンポスは狂ったように派手なジェスチャーで先輩のスーパーゴールを祝福していました
 アルゼンチン・リーグには現在、ベロンリケルメカモラネージのような「元代表」の肩書きを持った選手が何人かいます。いずれも別格の存在感を放っていますが、でも、チームメイトを唖然とさせるような「超人的なプレー」を披露しているのは、現時点ではトレゼゲだけです。
 あくまで「自分はチームの一員」という謙虚な姿勢を崩さずに、「世界チャンピオン」の肩書きに相応しい素晴らしいゴールを次々と生み出しているストライカーに、私もすっかり虜になってしまいました。トレゼゲの活躍によってリーベルが1部に返り咲く———。そんなシナリオの実現を、是非期待しています!!】 《この項・了》




《ワールドサッカーダイジェスト:2012.5.3号_No.362_記事》
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メ ン タ ル 講 義_第9回 [世界のサッカー事情]

スペイン人スポーツ心理学者が 選手や監督の“内面”を解説

※ 選手や監督が抱える様々な悩み ※
プロの選手や監督はもとより、近年は下部組織に所属する少年までが、 心理カウンセラーの下を訪れ、カウンセリングを受けているという。 抱える悩みや問題は、年齢や立場によって千差万別だ。

[ 扱いには細心の注意が必要 ]
 今回は、心理カウンセリングを必要とする選手や監督が抱える問題について、お話したいと思います。一般的にはあまり知られていない事実ですが、自身のキャリアを実りあるものにするために、心理カウンセラーにサポートを求める選手や監督の数は、近年、確実に増えてきているのです。
 では早速、選手から見ていきましょう。選手が抱える悩みや問題は、年齢や立場によって大きく異なります。そこで、年代別に3つのカテゴリーに分けて解説していくことにします。
【10代前半の少年】この年代は、本人ではなく親御さんがカウンセリングを依頼されるケースが大半です。本人以外がカウンセリングを望んでいるというのは、正直なところ、カウンセラーとしては非常にやりづらいモノがあります
 相談に来られる親御さんの多くは、将来、自分の息子がスター選手になるものと信じて疑っていません。自身が叶えられなかった夢を息子に託し、無意識のうちに(あるいは意識的に)プレッシャーを掛けているのです。言うなれば、身勝手な願望を子供に押し付けているわけです
 行き過ぎたプレッシャーに晒された子供達は、サッカーが楽しめなくなったり、あるいは親の期待に応えられずフラストレーションを溜め込んでしまいます。極端な場合は、監督よりも父親の言葉に従い、監督の仕事に支障が出るといったケースもあるのです。
 こうした親御さんはほぼ例外なく、過度の期待が我が子を苦しめているという自覚がありません。従って、まずは彼らにそれをハッキリと認識させ、態度を改めさせる必要があります
 この年代の少年は、大人が思っている以上にデリケートです。実際、大きな可能性を感じさせていた少年が、様々な試練に直面する中で、急激に輝きを失っていくといった事例は星の数ほどあります。それだけ扱いには細心の注意が必要なのです
 テクニック、フィジカル、メンタル、戦術理解力など、フットボーラーに必要な能力がもっとも伸びるのは16〜17歳と言われていますが、この年齢に達するまでをどう過ごすかが将来の伸び幅を決めると言っても過言ではありません。健全な心理状態でサッカーに打ち込めるよう導くことが、我々カウンセラーに求められる役割なのです
【下部組織所属のハイティーン】同じティーンエイジャーでも20代に近付くと、契約を結んでいる代理人や所属クラブを介しての依頼が増えてきます。
 10代後半というのは多感な時期であると同時に、子供から大人へと移行していく変わり目です。初めて給料を貰ったり、一人暮らしを始めたり、恋人が出来たりと、様々な変化が起こります。そんな青年をより良い社会人、そしてプロフットボーラーへと成長させるために、我々は心理面はもとより、健康面や生活面までサポートしているのです
 代理人やクラブの関係者が連れてくるのは、悩み多き青年達です。周囲の環境や初めて暮らす町に馴染めなかったり、あるいはプロ選手に成れるか否かという心理的プレッシャーに押し潰されそうになったり、抱える悩みは様々です。心理カウンセラーには、それぞれの悩みに応じた適切な対応が求められます

[ カウンセラーの“お得意様” ]
凄まじいプレッシャーに晒され、ストレスを溜め込んでいる監督が、カウンセリングに頼るのは当然だ。
【プロ選手】20代〜30代のプロ選手は、本人の意思で心理カウンセリングを依頼してくるケースが大多数で、その悩みはポジションやチーム内でのステータスなどによって千差万別です。例えば、何試合も得点から遠ざかっているストライカーが、ゴールを欲するあまり、チャンスが巡ってきても身体が思うように動かないと訴える事例が良くあります。こうしたケースでは選手に自信を取り戻させると同時に、プレッシャーから解放してやり、自然体でプレーできるよう導くことが肝要です
 自信喪失といえば、監督の構想から漏れ、ベンチ生活が続く選手もそう成りがちです。こういった場合は、まず自分の置かれた立場を受け入れさせ、そのうえでレギュラー奪還を目指して練習に取り組めるよう、前向きな意識を持たせることが重要です。
 また、故障明けの選手が怪我の再発を恐れ、不安感に苛(さいな)まれながらプレーしているという悩みもよく聞きます。このような時は、恐る恐るプレーしているほうが、かえって怪我を再発させかねないと言い聞かせます。恐怖心に駆られた選手はストレスを溜め込み、その結果、筋肉が硬直して怪我を引き起こし易くなるのです
 その他、集中力やモチベーションの維持、試合中のペース配分の仕方などカウンセリングの内容は様々です。選手の自宅が遠かったり、あるいはチームの遠征が続いたりといった理由から、多くの場合、実際に顔を合わせるのが難しいため、私は主にTV電話を使ってカウンセリングを行なっています。
 私の担当ではありませんが、マドリーのクリスチアーノ・ロナウドやペペのように、精神的にとりわけ不安定だと認められる選手に関しては、クラブが心理カウンセリングを受けるよう指示することもあります。但し、カウンセリングというのはカウンセラーと患者の信頼関係が何よりも大切です。従って、クラブを介さず、個別に連絡を取り合うのが最適な方法でしょう
【監督】心理カウンセラーにとって監督は、“お得意様”と言える存在です。選手であれば、精彩を欠いたプレーが何試合か続き、仮にバックアッパーに降格しても、その後のプレー次第ではレギュラーに復帰できる余地があります。ですが監督の場合、結果が伴わなければ即座にクビを宣告されかねません。そのプレッシャーたるや尋常でなく、ストレスは溜まる一方です。そんな監督達がカウンセリングに頼るのは当然と言えるでしょう
 現場指揮官たる監督は、20人を超える選手を管理しなければなりません。しかし、その全員と理想的な関係を築くのは不可能と言っていいでしょう。選手にはそれぞれ個性があり、考え方や求めているモノが異なるからです。
 イニエスタやベンゼマのように、常に周囲からの愛情を必要とするナイーブなタイプがいれば、ピケやマルセロのように、外交的で、監督の厳しい苦言やメディアの批判にも動じない図太い選手もいます。私は監督に、各選手の性格的な長所と短所を正確に見極める方法と、それぞれの個性に適したコミュニケーションの取り方を指南しています
 カウンセラーは更に、メディア対応の指導も行なっています。記者会見などで監督がメディアを通じて発言する際は、時にクラブの代表者という立場でモノを言わなければなりません。つまり、それだけ影響力が大きく、発言には細心の注意を払う必要があります。私は心理カウンセラーとして、エモーショナル・インテリジェンス※編集部・注を向上させるためのアドバイスを与え、更に状況に応じた発言ができるよう指導しています
 ※編集部・注:自分の感情をコントロールし、なおかつ相手の感情を理解して、対人関係を上手く処理すること




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いつだって楽天南米_No.162 #360 [世界のサッカー事情]

かつての英雄達が今以上に、嫉妬するくらい偉大になって

【少し前の話になりますが、今年1月9日、メッシが3年連続でFIFAバロンドールの栄冠に輝いた時のことです。往年の名選手で、現在はレアル・マドリーの名誉会長を務めるアルフレッド・ディ・ステファノは、コメントを求められると開口一番にこう言いました。
「A mi que me importa que Messi tenga tres balones de Oro ?(メッシがバロンドールを三度受賞したからって、それが何だっていうんだ?)」
 続けてディ・ステファノは、自分も二度受賞していること、サッカーはチームスポーツであって、個人タイトルは一人の栄誉ではないことを強調していましたが、それにしても、「A mi que me importa ?」は「どうでもいい」とか「構うもんか」といった意味合いを含んだ表現です。レジェンドの口からそんなフレーズが飛び出すとは、誰も予期していませんでした
 メッシが三度目のバロンドールに輝いた事実は、勿論「どうでもいい」ことではありません。実際、受賞のニュースはアルゼンチンでも大々的に報じられて、国民を大いに喜ばせました。どうしてディ・ステファノともあろうお方が、まるでファンを煽るかのように、「ダカラ何なのだ?」と言い放ったのか。アルゼンチン国内のメディアはその言葉を見出しに打って、嫉妬心の表れだと報じていました
 自分自身の偉業や成功を、得意然として周囲に話す。アルゼンチンでは、特に珍しい行為ではありません。でも、他人の功績について問われた時まで、自分の成功を主張するのは、やっぱり大人気ないです。それではまるで、「○○君だけじゃなく、僕だって頑張ったよ!!」とアピールしている子供と一緒。世界中のサッカー愛好家から敬愛されるディ・ステファノらしくないと思ったのは、きっと私だけではないはずです。
 メッシのバロンドール受賞を受けて、「俺もスゴイ選手だった」と思わず自分をアピールしてしまったのは、ディ・ステファノだけではありません。今まではメッシを手放しで絶賛するだけだったマラドーナも、先日、遂に言ってしまったの。
メッシマラドーナより凄いと、そう誰かが言っているのを聞く度に、笑ってしまうよ。メッシは確かに、俺と比較されるだけのプレーを見せていると思うが、まだキャリアの途中だ。まずは彼が“歴史を作る”のを待とうじゃないか。どちらが優れているか。それが判断できるのは、メッシがキャリアを終えてからだ」
 言葉の端々に、マラドーナの焦りを感じます。以前は「メッシは俺の後継者だ。いつか俺を追い抜いてくれると願っている」と、そんな余裕さえ見せていたのに、「笑ってしまう」と感情を露にしたマラドーナの発言は、メッシを必要以上に意識するライバルのそれでした。本当に抜かれるかも知れない———。そんな危機感を、マラドーナは募らせているのでしょう
 また、「歴史を作るのを待とうじゃないか」と語った言葉の裏に見え隠れするのは、「俺はワールドカップで優勝している」という強烈な自負。現時点でメッシはまだ自分を超えていないと、暗にそう主張しているようにも感じ取れました。
 2月29日に行なわれたスイスとの親善試合で、アルゼンチン代表では初となるハットトリックを達成したメッシ。これで代表での得点数を22まで伸ばし、通算ゴール数で歴代の5位に浮上しました。3位のマラドーナとの差は、12ゴール。24歳という年齢を考えれば、メッシが偉大な先輩の記録を追い抜く可能性は、十分にあります
 私にとってのマラドーナは、比較の対象など存在しないくらい別格中の別格です。50年代から60年代に掛けてマドリーの試合を観ていた人ならば、ディ・ステファノほど偉大なサッカー選手はイナイと、今でも固く信じているでしょう。にもかかわらず、マラドーナディ・ステファノも、焦りや嫉妬の感情をオモテに出してしまうなんて・・・。それだけメッシの勢いが、凄まじいということなのでしょうが
 憧れのマラドーナには申し訳ないけれど、往年の英雄達が今以上に嫉妬するくらい、メッシにはもっともっと偉大になってもらいたいと願っています!!】 《この項・了》




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ニュースの裏側_News number・14 [世界のサッカー事情]

中国サッカー界の光と闇
“オモテ”だけでは分からない 気になる報道の“ウラ”を読む
世界第2位の経済大国に躍り出た中国。今冬に上海申花(しゃんはい・しんか)がアネルカを獲得して注目を集めるなど、その好況は間違いなくサッカー界にも影響を与えている。だが、華やかに見える舞台の裏側では———。

[ アネルカの年俸は世界最高のレベル ]
欧州のトップシーンに別れを告げ、サッカー後進国に舞い降りたアネルカ。上海申花が彼に支払う年俸は、推定で約11億円と言われる。
3月10日に新シーズンが開幕する中国スーパーリーグ(CSL)。16チームで争われる“超級”の最大の注目は、広州恒大(こうしゅう・こうだい)を王座から引きずり下ろすチームが現われるかどうかだろう
 2009年のシーズン終了後、中国サッカー協会は八百長に関与した制裁として、広州(当時は広州足球倶楽部)に2部降格を通告した。しかし、中国の故事に「塞翁が馬」とあるように、この災いがクラブの運命を好転させる。中国屈指の不動産会社である恒大地産にバーゲン価格(約1億円と言われている)で買い取られ、莫大な額の投資がスタートするのだ。オーナーは、好景気に沸く中国でも指折りの富豪であるシュ・チャイン。チームは10年に2部優勝で昇格を果たし、勢いをそのままに昨シーズンは堂々のCSL制覇。今シーズンはCSL連覇に加え、アジア・チャンピオンズ・リーグの優勝を見据えている。僅か2年という短期間で、恥辱にまみれたクラブは国内ナンバーワンの地位を確立するに至ったのだ
 広州恒大の陣容は強力だ。かつて北京国安(ぺきん・こくあん)を名門へと押し上げた韓国籍のイ・ジャンスを監督に迎え、ガオ・リン・、スン・シャン、ジャン・ジら新旧の中国代表選手がずらりと顔を並べる。助っ人はエースFWのミュリクイと、ブラジル全国選手権で2年連続MVPに輝いた経歴を持つアルゼンチン人MF、ダリオ・コンカ。昨シーズンの途中にフルミネンセから加入したコンカの年俸は、約1050万ドル(約8億3000万円)と破格で、他の主力選手のサラリーもナカナカの高水準だ。
 この広州恒大の持つ圧倒的な経済力が中国サッカーの移籍市場を歪め、昨今のCSLでは、選手達が高額な年俸を求める傾向が強くなっている。強豪クラブは従来の資金力では戦力を維持できなくなり、大口スポンサーの獲得に奔走しつつ、成り金オーナーへの身売りの噂も後を絶たない。岡田武史・前日本代表監督が新指揮官となった杭州緑城(こうしゅう・りょくじょう)、元ガンバ大阪監督のヨジップ・クゼが率いる天津泰達(てんしん・たいたつ)、更には、かつてバルセロナでフランク・ライカールト監督の右腕として鳴らしたヘンク・テン・カテが指揮を執る山東魯能(さんとう・ろのう)などが上位を賑わすことになりそうだ。しかし最も注目を集めるのは、やはり上海申花(しゃんはい・しんか)だろうか。
 07年にIT起業家のズ・シュンによって買収され、巨額投資を繰り返してきた上海申花は、国内とアジアの双方で無残な結果に終わった昨シーズンの反省を受け、今オフは派手な補強に動いた。フランスからジャン・ティガナを新監督に招き、チェルシーから元フランス代表ニコラ・アネルカと、CSLでの実績十分の元オーストラリア代表MF、ジョエル・グリフィスを獲得。更には、ディディエ・ドログバの引き抜きを画策中で、こちらは元僚友のアネルカが説得に当たっているようだ。「元々アジアには好印象を持っていたんだ。だから上海からのオファーが来た時は、一もニもなく飛びついたよ」と語るアネルカ。その年俸は世界を見渡しても最高レベルの、約1400万ドル(約11億円)と言われている
 次に中国にやって来る大物は、ドログバか、デコか、それともロナウジーニョか。世界第2位の経済大国に躍り出た国のサッカーリーグは、名を売りたい野心家オーナー達による“ビジネス・ゲーム”の様相を呈している。】

[ まさに負の連鎖。内情は危機的状況だ ]
新主席就任が有力視されるシー・ジンピンは大のサッカー好きだ。改革の陣頭指揮に立つのではと期待も。
【確かにCSLは華やかだろう。だがそれを支えている中国サッカー界は、問題が山積みだ。
 全体的なサッカー人気そのものはまずまずだが、ファンの殆どはイングランドやスペインなど欧州リーグに関心を寄せている。国内トップリーグであるCSLの人気はお世辞にも高いとは言えない。広州恒大と北京国安を除けば観客動員はパットせず、ゲームやリーグ運営のクオリティーにも疑問符が付く
 やはり、ここ数年で相次いで発覚した八百長やクラブ幹部による汚職など、数え切れないほどの不正行為が、中国サッカーのイメージを著しく傷つけている。ファンの信頼を回復し、正常な状態に戻るには、相当の時間が必要だろう。つまり、昨今のCSLにおける経済的な繁栄(いくつかの限られたクラブの繁栄と言うべきか)は、リーグの成功に直結していない。テレビ放映権料や入場料などによる収入は、実に微々たるモノだ
 中国代表チームの弱体化も顕著で、こちらは問題の本質が根深い。CSLの発展・成長は不可欠だが、統括する中国サッカー協会の価値観が変わらなければ、改善は見込めないだろう。中国の場合は他国の協会のような、いわゆるスポーツ団体ではなく、政府(共産党)の要人が直轄管理している。その多くは、サッカーはおろかスポーツの知識さえまるで持たない面々で、とりわけ草の根レベルでの普及や若手の育成については、何ら対策を講じていない。中国代表は既に、2014年ブラジル・ワールドカップの出場権を失っている。なんとアジア最終予選にさえ駒を進められず、3次予選で姿を消してしまったのだ。
 長きに渡り中国サッカーを支えてきたのは膨大な競技人口だが、近年のイメージダウンと他のスポーツ(バスケットボールなど)の台頭により、サッカーをする子供が激減しているのも気になるポイントだ。完全に負の連鎖に苛(さいな)まれており、危機的状況とも言える。
 課題を挙げれば切りがない。まず、汚職や八百長を一掃しなければならない。随分と改善はされたが、信じられないことに未だ黒い影が見え隠れする。若手の育成にも本気で取り組み、全国的なコーチングのネットワークや、CSLの各クラブにユースシステムの確立を促すなど、抜本的な改革が必要だろう。ひとつの光明は、今秋に新国家主席となる可能性が高いシー・ジンピン(現副主席)が、大のサッカーファンという点だ。彼がサッカーの対して本格的にイニシアチブを取り、この状況を改善するために立ち上がるのではないかと期待されている
 復建への道のりは険しい。だが基本的なインフラさえ整えば、中国サッカーは飛躍的に成長する可能性を秘めている。実際に中国代表と国内リーグは、環境が整った時には相応の結果を残してきた。1990年代半ばから2000年代初頭に、大手不動産会社の大連万達(だいれん・わんだ)が中国サッカーを強力にバックアップし、その結果、中国代表は2002年ワールドカップ本大会の切符を手に入れ、国内リーグは活況を呈した。現在の惨状は、その大連万達が中国サッカー界の汚職に抗議する形で、サッカーから距離を置いてから始まったモノだ(大連万達は昨年7月に中国サッカー協会と3年契約を結び、CSLの公式スポンサーとなった)
 サッカーの発展にマンパワーを結集させ、山積する問題を解決できれば———。CSLが日本や韓国に優るとも劣らない、アジア最強リーグの称号を勝ち取るのも夢ではないだろう。特定のクラブが巨額投資を続けるだけでは、この国のサッカーの窮状は救えず、枠組みは何も変わらないままだ。】




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いつだって楽天南米_No.161 #358 [世界のサッカー事情]

テベスがキャリアの岐路に、絶対に後悔のない決断を!!

【去る2月4日、ボカの最多得点記録を持つストライカー、パレルモの引退記念試合に招待されたテベス。久し振りに古巣ボンボネーラ(ボカのホームスタジアム)に姿を現わすと、超満員のスタンドからは大歓声が沸き上がりました
 ミランか、インテルか、はたまたパリSGかと、それこそ毎日のように移籍の話題が取り沙汰されるなど、冬のマーケットで文字通り主役を演じたテベスでしたが、結局、少なくともこの夏まではマンチェスター・Cに留まることに。昨年9月27日のバイエルン戦で、マンチーニ監督から命じられた途中出場の指示を拒んで以来、かれこれ4か月以上もピッチに立っていないテベスは、いまだチームとは別行動を続けていて、母国アルゼンチンに滞在しています
 試合に出ていないだけでも問題ですが、もっと心配なのは、この空白の4か月間、サッカーに対する愛情や情熱がテベスから全く感じられなかったこと。コンディションを維持するためにプロのチームと一緒に練習をしたければ、ボカは以前のブルディッソのように大歓迎で受け入れたでしょうし、自主トレをしたければ場所はいくらでもあります。にもかかわらず、メディアで報じられたテベスの近況といえば、「ゴルフのコンペに参加」、「音楽祭にゲスト出演」、「ビーチで家族とくつろぎ中」と、ファンをがっかりさせるモノばかり・・・
 マンチェスター・Cから規律違反の処分が下された昨年10月、「みんなのテベスがこのまま第一線から消えてしまうなんて寂し過ぎる」とこのコラムで書きましたが、あの時、まさか状況が悪化の一途を辿ることになろうとは、正直予想もしていませんでした。
 おそらくマンチーニ監督を初めとするマンチェスター・Cの関係者は、テベスが態度を改めることを期待して待っていたのではないでしょうか。でも当の本人は、クラブに無断でアルゼンチンに帰国したきり、マンチェスターに戻ろうともせず、トレーニングしている姿をアピールする姿勢すらありません。つまり、マッタク反省していないように見えるのです。
 パレルモの引退試合では、当初、プレーすることになっていました。中継したテレビ局のレポーターも、直前まで「久し振りにテベスがボールを蹴ります!!」と興奮気味に語っていたのですが、イベントが始まってユニホームを着た選手達が登場すると、その中にテベスの姿はありませんでした
 ボカに数々の栄冠をもたらしたビアンチ監督と一緒に、テベスが私服姿で現われたのは、ハーフタイムでした(写真/テベスの右はパレルモ。左はパレルモの長男)。すると、ボンボネーラの大観衆からは「オーレー、オレオレオレー、テベス!! テベス!!」の大合唱。私はその瞬間、昨年のコパ・アメリカでメッシ以上の大声援を受けていたテベスの人気が、いまだ衰えていないことが判ってちょっと安心したのと同時に、テベス本人には、人々から認められて喝采される喜びを思い出して欲しい、今すぐにでもピッチに立ってプレーしたいという情熱を取り戻して欲しい———そんな願いにも近い思いを、抱いたモノです。
 昨年6月、アルゼンチンのトーク番組に出演した際に、「俺は28歳になったら引退するんだ」と爆弾発言を放ってファンを驚かせたテベス。直後にコパ・アメリカが開幕したこともアッテ、この発言はさほど大きく取り上げられずに、すぐに忘れられてしまったのですが、マンチェスター・C残留が確定して直ぐの2月5日に、テベスがちょうど28歳の誕生日を迎えたのは本当に偶然というカ、皮肉というか。どこまで本気だったかは判りませんが、テベスの心の中にあるプロ・サッカー選手としての情熱が、既に冷めてしまっているのだとしたら、それほど残念なことはありません。
 マンチーニ監督は、「もしテベスがトレーニングを再開してコンディションを取り戻したならば、もう一度私のチームでプレーするチャンスはアル」と、一度は閉ざした扉を開いてくれています。その言葉を素直に受け入れて、次に繋げるかどうか。自分の未来は、自分次第でいかようにもなるのです。テベスのファンの一人として、後悔のない決断を下してもらいたいと思っています。】 《この項・了》




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