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(秘)世界蹴球 紳 士 録_FILE:31 [世界のサッカー事情]

会長、GMなど サッカー界を動かす  エグゼクティブの 知られざる素顔 (マルセイユSD:ジョゼ・アニゴ)
良くも悪くもマルセイユを象徴する存在、それがSDのジョゼ・アニゴだ。選手時代を含めれば、クラブ在籍年数は26年に及ぶ。長く留まるのは極めて困難と言われるこのクラブで、権力の中枢に居座り続けるこの男はイッタイ何者なのか。

[ 食われるのが嫌ならその前に食っちまえ ]
【2004年のこと。ある選手への独占インタビューで、マルセイユ(以下OM)のトレーニング施設を訪れた。練習が終わり、記者団が監督の囲み取材を始める。そのうちに若い記者が、批判めいた質問をした。すると監督は突然、「お前はどこの記者だ!!」と烈火のごとく怒り出し、驚いた記者が小声で地元紙の名前を出すと、そのスキンヘッドの指揮官は「それでも本当にマルセイユの記者か」と睨みを利かせた。監督が記者を恫喝するような光景は、少なくともフランスでは後にも先にも見たことがない。その監督が、ジョゼ・アニゴであった
 こんなエピソードもある。
 リヨン対マルセイユ戦の試合前。ジェルラン(リヨンのホームスタジアム)のVIPルームへと繋がるエレベーターのドアが開く。リヨンのジャン=ミシェル・オラス会長は、OMのお偉方をエスコートして自分も乗り込み、扉の方へ向き直った。すると何を思ったか、OMのSDとして同行していたアニゴが、背を向けていたオラス会長のダッフルコートのフードに、つまんでいたピーナッツの殻を投げ入れたのだパプ・ディウフ会長(当時)ら他のOM関係者はそれを見て青くなったが、アニゴはひとり、クツクツと必死で笑いを堪えていたという。「悪党」、「無教養」、「マフィア」、「闇の権力者」———。アニゴにはこうしたダーティーなイメージが付きまとう
「毒矢を受けたよ。それも猛毒のな。悪党だの、無能だの、無教養だのと言われて、最初はそういう偏見を無くそうと必死に戦った。でも、すぐに止めたよ。こっちが何を言っても無駄だってことが判ったんでね」
 居直り、ヒール役に徹することにしたアニゴの口からは強烈な言葉が次々と飛び出す。
ここじゃ、舞台の裏から糸を操る術を学ばなきゃ生き延びられない
後ずさったら消される。食われて、それでオシマイだ
 口癖は、「小麦粉の中でグルグル回されて———」。やがて煮えたぎった油に落とされて食われてしまう、という示唆がある。そう、揚げ物だ。食われるのが嫌なら、その前に自分が食っちまえ!! というわけだ。
 この独自の哲学でアニゴは、雇われ会長の首が2年で切られ、監督の首が1年で飛ぶOMにあって、ずっと生き長らえてきた。選手時代も含めた総在籍年数は、なんと26年。これはアニゴが、良くも悪くもマルセイユを象徴する存在であることを示している。】

[ 相棒ディウフも最後は裏切られて・・・ ]
アニゴが監督だった時代にはSDとして彼を支え、会長就任後もともに歩んできたディウフでさえ、最終的に裏切られた。
アニゴが生まれたのは、マルセイユの北部地区。移民が多く暮らす貧しいエリアで、イコール、ギャングの巣窟という差別的な連想が成り立つ。だが実は、ジネディーヌ・ジダンを生み、サミア・ナスリを生んだ、マルセイユ庶民が誇りとする場所でもある
 マルセイユは古くから、移民によって支えられてきた。様々な国から集まった者たちがOMへの信仰で結ばれ、美しく融合されている。スペインから来たアニゴの父にとっても、OMは人生そのもの。実際、このクラブとの繋がりは深い。彼の祖母の従兄ペピート・アルカザールは、30年代にOMのエースとして鳴らした男である。
 アニゴもまさにOMの申し子だ。幼い頃から熱狂的信者としてヴェロドローム(OMのホームスタジアム)に通い、15歳で念願叶ってOMの育成センターに入所する。ポジションはサイドバック。79年、18歳でトップチーム入りし、87年にニームに移籍するまでOMに身を捧げた。
 現役引退後はアマチュアクラブの監督となり、病院の夜間勤務で担架を運ぶ仕事を掛け持ちして生計を立てた。そして97年、アニゴはOMに戻って来る。下部組織の監督、育成センター所長、トップチームのコーチ、更に同監督と着実に階段を登っていき、05年にはSDに就任。本格的に“舞台裏で糸を操り始めた”のはこの頃だ。気付けば、地縁や血縁を基盤としたアニゴ人脈は、クラブ組織の根幹に根付いていた
 糸を強く引き過ぎたこともある。
 ジャン・フェルナンデス政権時代の05-06シーズンに、トマ・デルダという下部組織育ちの若手がデビューした。ところが、これがマルで実力不足。誰もがコノ若いMFの抜擢を訝し(いぶかし)がった。そして間もなく、デルダが暗黒街の大物の息子で、その人物はアニゴに近しいという事実が発覚する。この一件は疑惑事件に発展。しかし、アニゴはもとよりディウフ会長もだんまりを決め込み、フェルナンデス監督が不自然な形で辞表を提出する。こうして真相は闇に葬られ、今も闇の中にある
 約4年に渡り、アニゴと上手く折り合ってきた“相棒”ディウフも、最後は裏切られた。09年夏、死の間際にあったオーナーのロベール・ルイ=ドレフュスが、自分が病床に伏せっているのをいいことに勝手な振る舞いが過ぎると、ディウフを追い出そうを画策する。それを察したアニゴは、「だったら自分も辞める」と発言。ところが、実際にディウフがクラブを追われると、アニゴは何事もなかったかのようにOMに残ったのだ。それ以来、ディウフアニゴとは口を利かない仲となっている
 もっとも、アニゴがクラブに貢献してきたのも、確かだ。特に若いタレントを発掘し、安く購入するリクルーティング手腕には定評がある。マテュー・ヴァルビュエナはその好例で、ナショナル(3部に相当)で燻っていたこの小柄なアタッカーを二足三文で拾い上げた。トルコでプレーしていたフランク・リベリをタダ同然で獲得したのも、アニゴディウフである
 しかし、才能を見抜く自らの目とその功績に対する過大な自信が、09年夏に就任したディディエ・デシャン監督との対立を招くこととなる。即効性のある大型補強を望むデシャンに対し、アニゴは若い才能の発掘を核に据えた政策を主張。自分に反発する指揮官に不満を募らせ、それはやがて憎悪へと発展する。そして今シーズン、アニゴは遂に戦争を仕掛ける。チームが大不振に喘いでいた昨年10月、アニゴは記者会見で、「誰のせいだの何だのと、他人に責任転嫁するのはヤメロ」と発言。名指しこそしなかったが、不振の責任は全て監督にあると暗にデシャンを攻撃したのだ。これに対してデシャンは、宿敵パリ・サンジェルマンとの一戦でチームを勝利に導き、吹き荒れる逆風を振り払うことに成功する。そして、「誰もOMの愛を独占できない」とやり返した。
 一連の騒動を収束させるべく、ヴァンサン・ラブリュヌ会長はアニゴに金銭的ペナルティーを科す。クラブのイメージを損ねたというのが、その理由だった。
 だが今年4月、チームが再び不振に陥ると、アニゴは嬉々としてまたしてもメディアに登場する。
俺への罰は理不尽だ。とはいえ、会長のことは恨んじゃいない。シーズンが終わったら、全てをハッキリさせようじゃないか。その日が来るのが待ち遠しいよ
 戦闘再開の狼煙である。ヴェロドロームのサポーター席には、「デシャンデシャンの選手はとっとと失せろ!!」という横断幕が張られたが、誰もがその背後にアニゴの存在を感じていたデシャンは挑発を無視し、苦境の中でリーグカップのタイトルをもたらす。しかし、両者がこの先も呉越同舟するのは難しいとの見方が一般的だ。
 シーズン終了後には、どちらの血が流れるのだろうか。この夏、「アニゴを切れない」と言われて久しいOMの正念場が、またやって来る。】





《ワールドサッカーダイジェスト:2012.5.17号_No.363_記事》
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